率直さが暴言になる時——田原総一朗氏の命式に見る晩年の課題
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率直さが暴言になる時——田原総一朗氏の命式に見る晩年の課題
四柱推命
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ロン
Lóng 先生
ジャーナリストの田原総一朗氏が、番組中で高市早苗新総理に向けて放った発言が波紋を呼んでいる。
「あんなやつは歹ヒんでしまえと言えばいい」——その一言が、長年メディアの現場を見続けてきたベテランの口から出たことに、驚いた人も多いだろう。
この発言を受け、番組を放送したテレビ局には批判が殺到した。編集段階でこの発言をカットしなかった判断にも「報道倫理が問われる」との声が上がった。もっとも、左傾化しているBS朝日だから仕方ないか…。
田原氏は「歯に衣着せぬ発言」で知られているが、今回はその“率直さ”が一線を越えた形だ。
■ 田原氏の命式に見る「過傷官」の衝動
田原氏の命式を四柱推命で見ると、こうなる。
【年】甲戌・偏印・墓
【月】戊辰・食神・冠帯
【日】丙辰・ ・冠帯
五行をみると「土」が大過していて過傷官という。
傷官は、頭の回転が速く、理屈で相手を切るタイプ。だが同時に、言葉が鋭すぎて周囲を傷つけやすい。
それが“大過”の状態になると、他者を論破する快感が自己目的化し、批判のための批判に陥りやすい傾向を示す。
また冠帯が並んでいるが、この星は、頑固で批判力も旺盛な星である。
田原氏の人生を振り返れば、この「言葉で切り込む」姿勢こそが彼の武器だった。だが、今回の発言はその刃が相手ではなく、自らの信頼を傷つけた形だ。
■ メディアの本質は「批判」ではなく「検証」にある
報道とは、権力を監視するために存在する。
だが、いつの間にか「権力を叩くこと」そのものが目的化してはいないだろうか。
今回の件を見ていると、批判する側が“免罪符”を得たように錯覚しているように思える。
「相手が総理だから」「政治家だから」といって、何を言ってもいいわけではない。
発言の自由はあっても、表現の責任がそれに伴わなければ、報道は単なる感情の発散になる。
ジャーナリストとは、言葉で世論を導く職業だ。
その言葉が暴言へと堕ちた瞬間、社会の信頼は簡単に崩れる。
■ テレビ局にも問われる「編集責任」
もう一つ看過できないのは、放送局側の対応だ。
今回の番組は収録であり、編集段階でカットできたにもかかわらず、そのまま放送された。
これを「視聴者の判断に委ねる」とするのは、あまりに無責任だ。
報道の現場では、「言わせた側」「流した側」も同じ責任を負う。
暴言を流すことで視聴率を稼ぐ。
それは、言論をエンタメに貶める行為であり、メディアの存在意義を自ら放棄するものだ。
■ 「新総理への批判」は冷静な言葉で行うべきだ
高市早苗氏は、女性として初の総理となり、内外から注目を浴びているし、国民の支持率も高い。
その政治姿勢に賛否があるのは当然だ。だが、批判するにしても、言葉には節度が必要だ。
誹謗や侮辱の域に踏み込めば、それはもはや「政治批判」ではなく「人間攻撃」だ。
議論は、相手を倒すためのものではない。
社会を前に進めるためのものである。
もし言葉が刃物であるならば、ジャーナリストはそれを最も慎重に扱うべき立場だ。
■ 言葉の重さを忘れた時、言論は腐る
田原氏の発言は、一個人の失言として済ませるには重い。
なぜなら彼は、言論界を象徴する存在だからだ。
そんな人物の口から出た「歹ヒねばいい」という言葉は、メディアがどこまで暴走していいのか、という限界点を示している。
だが同時に、ここで私たち視聴者も問われている。
私たちは本当に“言葉の中身”を見ているか?
それとも、“勢い”や“怒り”の強さで誰かを支持してはいないか?
健全な言論とは、静かな理性の上に成り立つ。
声の大きさではなく、言葉の正確さが信頼を生む。
メディアがそれを忘れたとき、報道は思想を導く力を失う。
■ 終わりに
田原氏の命式を見ると、彼はまさに「言葉で勝つ人」であり、「言葉で損をする人」でもある。
その運命を知ったうえで、自らの発言をどう使うか。
そこに、人生後半(晩年)の課題が見えてくる。
彼は、総理に「歹ヒね」と言っているが、彼自身来年の比肩、再来年の敗財で、肉体の寿命が終焉を迎えるようになるであろう。
星は性格を映す鏡であって、運命を縛る鎖ではない。
言葉の刃をどう研ぎ、どこに向けるかは、その人自身の“意志”次第である。
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